民進党大分県参議院選挙区 第1総支部
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参議院議員 足立信也

足立信也と安心な日本を創る会
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プロフィール

足立信也のプロフィール

  • 氏名 足立信也 (あだちしんや)
  • 生年月日 昭和32(1957)年6月5日生
  • 現住所 大分県大分市上戸次
  • 職業 医師
  • 出身地 大分県大分市
  • 家族状況 既婚(妻、長女、長男)

学歴

  • 昭和45(1970)年3月 大分市立上戸次小学校 卒業
  • 昭和48(1973)年3月 大分市立戸次中学校 卒業
  • 昭和51(1976)年3月 大分県立大分舞鶴高等学校 卒業
  • 昭和51(1976)年4月  筑波大学医学専門学群 入学
  • 昭和57(1982)年3月 筑波大学医学専門学群 卒業
  • 平成2(1990)年1月 医学博士 (筑波大学)

職歴

  • 昭和57(1982)年4月 筑波大学附属病院見学生
  • 昭和57(1982)年6月 筑波大学附属病院医員(研修医)
  • 昭和59(1984)年5月 筑波大学附属病院医員
  • 昭和63(1988)年4月 きぬ医師会病院外科診療科長
  • 平成6(1994)年7月 筑波大学臨床医学系外科講師
  • 平成15(2003)年1月 筑波大学臨床医学系外科助教授
  • 平成15(2003)年4月 国立霞ヶ浦病院消化器科医長
  • 平成16(2004)年4月 筑波メディカルセンター病院診療部長

学会活動等

  • 昭和57(1982)年6月~  日本外科学会会員
  • 昭和60(1985)年2月~ 日本消化器外科学会会員
  • 昭和61(1986)年11月~ 日本外科学会認定医
  • 昭和62(1987)年5月~ 日本救急医学会関東地方会会員
  • 昭和62(1987)年7月~ 日本癌治療学会会員
  • 昭和63(1988)年4月~ 日本癌学会会員
  • 平成2(1990)年6月~ 日本消化器外科学会認定医
  • 平成7(1995)年4月~ 国際胃癌学会会員
  • 平成7(1995)年12月~ 日本消化器外科学会専門医
  • 平成8(1996)年12月~ 日本外科学会指導医
  • 平成9(1997)年6月~ 日本胃癌学会会員
  • 平成9(1997)年5月   国際胃癌会議発表(ミュンヘン)
  • 平成10(1998)年4月~ 日本胃癌学会評議員
  • 平成11(1999)年5月 国際胃癌会議発表(ソウル)
  • 平成12(2000)年6月~ 日本消化器外科学会指導医
  • 平成13(2001)年8月~ 日本癌治療学会認定臨床試験登録医
  • 平成15(2003)年5月 国際胃癌会議発表(ローマ)

政治活動歴

  • 平成16(2004)年4月~ 足立信也と安心な日本を創る会代表
  • 平成16(2004)年4月19日 民主党入党
  • 平成16(2004)年7月 第20回参議院議員選挙(大分県選挙区)で初当選
  • 平成21(2009)年9月~平成22(2010)年9月 厚生労働大臣政務官
  • 平成22(2010)年7月 第22回参議院議員選挙(大分県選挙区)で2期目当選
  • 平成28(2016)年3月 民主党⇒民進党
  • 平成28(2016)年7月 第24回参議院議員選挙(大分県選挙区)で3期目当選

現在の役職

  • 国会:
    裁判官訴追委員会 委員
  • 参議院:
    参議院改革協議会 委員
    選挙制度専門委員会 委員
    厚生労働委員会 委員
    政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会 理事
    行政監視委員会 委員
  • 民進党:
    政務調査会長
    大分県連代表
  • 筑波大学:
    客員教授

著書

  • 臨床医学のMinimum Essential(分担)ほか論文約70編

足立信也の生い立ち

10年前に父を、9年前に母を相次いで亡くしました。そのため、この「生い立ち」を記すにあたって、自らの幼い頃の記憶を確認する手立てがありませんでした。

ところが、立候補の決意を固めるにあたり、戸次の地縁者や小学校・中学校の恩師・旧友など、多くの方々にお会いしたところ、懐かしい話をたくさん伺うことが出来ました。

みなさんが、実によく私のことを覚えていてくれたことは、嬉しい驚きでした。面映いばかりの、お褒めの言葉をいただくこともしばしばでした。みなさん方からいただいた記憶と古いアルバムを手がかりに筆を起こしました。多少、自慢話めく所がありますが、お許しいただければ幸いです。

生い立ちについて

1957年(昭和32年)6月5日、大分市上戸次で、父 二也(ツギヤ)、母 ウメノ(旧姓後藤、大分市竹中上冬田)の次男として出生しました。

誰しも、時代の影響を受けずに成長することは出来ません。戦後日本の最大のイベントであった東京オリンピックは、私が7歳のときでした。オリンピックを境にして、日本は急速に都市化への歩みを速めたといわれています。私は、辛うじて、まだ貧しかった農村の風景を留める戸次を、原体験として持ちうる最後の世代に属していると思います。

私が、物心ついて最初に覚えているのはケネディ大統領の暗殺事件です。その頃、夢中になってみていた「ひょっこりひょうたん島」や「鉄腕アトム」より前に「ケネディ大統領の暗殺事件」が記憶されています。今にして思えば、多くの日本人がそうだったように、上戸次の洟垂れ小僧も、テレビというメディアを通じて、初めて、「世界」を感じた瞬間だったのかもしれません。

6歳の頃には、近所の農協職員の方に連れられて、大分市中戸次のみのり保育園(真宗大谷派、妙正寺)へバスで通っていました。その方とは、先日再会し、40年ぶりにお礼を言うことが出来ました。母がたまたま、保育園を覗きに来たときのことです。年少の女の子が高い木の枝に凧を引っ掛け泣いているのをみかねた私が、木に登って凧をとってあげたそうです。ずっと前に、母から聞いた昔話を思い出しました。

戸次小学校

1964年(昭和39年):上戸次小学校へ入学。1学年の人数は20人でした。

東京オリンピックをテレビにかじり付いてみていました。特に、陸上、マラソン、男子体操、重量挙げ、レスリング、女子バレー、柔道に感動したことを憶えています。個人名ではボブヘイズ、アベベ、円谷、小野喬、遠藤幸雄、早田(吊り輪)、山下とび、三宅義信、渡辺のタックル、猪熊、ヘーシンク・・・。感動のあまり、東京オリンピックの作文を投稿したことがありました。しかし、敢え無く、没。作文を見てもらった担任の先生からは、あまりに詳細で正確で長文であり、小学1年生の作文ではないと判断されたのだろうと慰められました。

その当時、自宅で「小学○年生」という月刊誌を購入していましたが、同学年では物足りず、1学年上の雑誌を買うよう、両親に頼んでいたそうです。

この頃は、男の子の人数が少なかったため、遊ぶときはほとんど小学生、中学生まで地区のほぼ全員が一緒に遊んでいました。みんなで遊ぶときには、何といっても野球でした。

そして、夏は、大野川と吉野川での水泳(水遊び)です。台風の翌日に散策するのが好きで、水かさの増した川で泳ぐのも好きでした。タイヤチューブを浮き輪にした急流下りも、忘れることが出来ません。2年生のとき、河原で遊んでいて、頭に大怪我をし、今でも傷跡があります。頭だけに、両親はかなり心配したそうです。

4年生からは毎年、大南地区陸上記録会へ参加しました。6年生では、100m走、走り幅跳び、ソフトボール投げに入賞。走り高跳びは優勝(1m25cm)、リレーは2位という成績でした。

また、健康優良児の大分市選考会へ出たこともあります。その時、津留小学校から来ていた男の子と知り合いになりました。彼とは、その後、舞鶴高校の寮で同室となり、今でも親交が続いています。

戸次中学校

1970年(昭和45年):戸次中学に入学。3年間、5kmの道のりを自転車通学しました。   1年生のとき、大分市の陸上大会の選手選考をかねた校内記録会で、走り高跳び1m52cm、県のタイ記録(中1)。走り幅跳び4m72cm、校内新記録(中1)。勉強の成績はトップで、俄然注目されました。

当時の戸次中学校は、上戸次小学校から13名、戸次小学校からは90名近くと、上戸次出身者は肩身の狭い思いをしていました。しかし、「信也さんのお陰で、この後、10年近くは上戸次の存在感が高かった」と多くの後輩が証言してくれました。

父親は旧制大分中学のサッカー部主将であったために、私がサッカー部に入ることを望んでいました。しかし、私は、当時最も人気の高かった野球部を選びました。部員数の多い野球部では、1年の時は、球拾いばかりさせられていました。

2年生になり、野球部ではレギュラーを獲得しましたが、春、体育の授業中に腰を痛め、2ヶ月間運動ができず、1学期の陸上大会、野球の大会をすべて欠場という悔しい思いをしました。

夏以降運動を再開し、秋の新人戦は1番サードと控えピッチャーでした。県大会準決勝では国見中学に敗退。その試合で、ピッチャーをしていてさよならヒットを打たれました。この悔しさ、みんなに迷惑をかけたとの思いから、3年の前期は野球に集中しようと決意しました。2年生の後期、私は、生徒会長でもありました。野球に専念していなかったという思いがあったのです。

ところが、3年になり、生徒会長選挙が近づいた頃、親友達から生徒会長に立候補するよう詰め寄られました。「生徒会長はお前しかおらんやねぇか。野球にも、生徒会にも、勉強にも、全部にがんばりよる姿に、みんなは付いていきよんのぞ」と言うのです。私は、みんなの意気に感じ、期待の大きさに感謝しました。結局、私はみんなの前で、あらゆることに全力でぶつかると宣言する羽目になったのです。

生徒会長として、私は、入学式で歓迎の挨拶をしました。この時の私の話を聞いた父兄の中には、いまだに誉めてくれる人もいます。多分、私に詰め寄った親友達の魂が、私のスピーチに宿ったのかもしれません。

この年の戸次中学の活気は大変なものでした。

野球部は大分市で初優勝。中学県体も、もちろん初優勝。私は、決勝戦で監督に、疲れの見えるエースに代わって投げろといわれました。しかし、私は、これまで一人で投げ抜いてきたエース(後に津久見高校へ)の頑張りを見て、彼が投げて仮に負けてもみんな納得する、俺が打って点を取るからと言って、辞退しました。不思議なことに、市の決勝戦も県の決勝戦もウィニングボールは私が捕球しました。野球をやったことのある人なら、誰でもわかることですが、三塁手がウィニングボールをとることは極めてまれなことで、幸せなことであり、運命的なものを感じました。

優勝してバスで帰った後は、戸次の街中をパレードしました。普段、苦虫を噛み潰したような顔の校長先生が行き交う人に、みなニコニコ頭を下げていたのが印象的でした。祝勝会ではジュースを飲みすぎて後から出されたスイカが食べられなかったことも懐かしい思い出です。

陸上部は、市の陸上大会でリレー初優勝(私は第1走者)。男子総合で3位という好成績でした。

野球が終わった後、同級生たちと海水浴に行き、受験生の自覚がないと全員の前で殴られたこと………秋の遠足、道端にある柿が甘いのか渋いのか議論になり、1個失敬してガブリとかんだら渋柿。先生からはよく食べたとほめられたこと………週末は20人くらいでよくサッカーをしていたこと………卒業式、涙でうまく答辞を読めなかったこと………

すばらしい学友たちに囲まれて過ごした中学時代の思い出です。これらのことはすべて、この時代、この戸次でなければ出来なかったことだという思いを強く感じています。

2004年4月26日「大分への想い そして決断へ」

大分への想い

私は大分市上戸次に生まれ、18年間を大分で過ごしました。 上戸次小学校、戸次中学校、大分舞鶴高校を卒業するまでです。子供の頃泳いだ、雄大な大野川の流れを眼下に眺め、その背景に天面山、祖母・傾の山々が連なります。亡き父は「庭先から、縦に流れる川の流れを眺望できる日本人はそういない」と自慢しておりました。その庭先には亡父が遺骨も遺品も戻らない実兄とその部下のために建立した観音様が立っております。床の間には祖国のために一身を捧げるのは男子の本懐、故郷の豊水・連山を望みつつ明鏡止水、と書した伯父の戦地沖縄に旅立つ朝の26歳の書が掲げられています。先祖のお墓には父の書いた「倶会一処」の文字があります。これは、いろいろな人生があるけれどもなくなった後は皆ひとつのところに集まる という風に私は解釈しています。おそらく、幼いときになくなって顔も覚えていない父親や、女手一つで教師という仕事をこなしながら育て上げた母親、尊敬していた兄にいつかは会えるという思いがこもっているのだと思います。私はそういう中で育ちました。

筑波大学医学部へ進み、大分を離れて28年が経ちましたが、この間毎年2回以上帰省しています。帰れば必ず飲み会を開いてくれる心優しい友がいます。この故郷の山や川、友達は私の心の支えでした。私は外科の道へ進みましたが、研鑽を積み、いつか第一線で働けるうちにふるさとへ帰りたいと思い続けていました。日本最初の外科手術が行われたのはこの大分です。妻も大分市古国府の出身で同級生であり、大分に帰ることに何の支障もありません。ただ、今の自分では不十分だという思いが私を遠い筑波山のふもとにとどめました。

医師になって以来、私は一人前の臨床医を目指して研鑽を積んでまいりました。週5日程度の泊り込みの生活が4年間続き、さらに3年間ほどは週2,3日の泊りが続きました。その後、医学の真理を追究したい、優れた臨床医を作りたいという思いから、卒後13年目、平成6年に母校の筑波大学の教官になり、9年間勤めました。10年前に父が、9年前に母がなくなり、私は故郷の地を相続しました。両親の法要で親族・両親の友人・地区の方々・友達を前に、10年間助けていただきたい、10年後には恩返しのために帰ってくる、と私は申し上げました。

決断の動機

3月末、突然に電話が来ました。相手は高校時代からの親友である衆議院議員吉良州司です。医療・年金を中心とした社会保障制度の充実が求められているこの時代に、「お前の力が必要だ、熱い思いを持ったエキスパートとして国会の場で働かないか」という誘いです。

私は日ごろから、日本国民の多くが抱えている閉塞感、得体の知れない将来への不安感を取り除かなければだめだと彼に言ってきました。医療現場にいますと患者さんも医療従事者もどうも元気がないと感じていました。患者さんは今話題の年金はもとより、医療に対する不安感、将来自分はまともに医療を受ける機会を与えられるのだろうか、貯蓄をしていなければ医療さえも受けられないのではないだろうか、さらに受ける医療は安心できる、信頼されるものなのだろうか、と不安でいっぱいのようです。

私は自分の健康に留意し、自らの元気を患者さんに分け与えられるように接し、そのことが患者さんの自ら癒える力の源になると指導してきました。が、毎日毎日責任を問われる仕事をしている我々のストレスやリスクを伴った医療行為は正当に評価されているのだろうか、精一杯尽くしている我々から元気を奪うような医療制度は正しいといえるのだろうか。 と考えていました。出馬を決めた理由は3点あります。

1つ目は医療・福祉の面から国民の元気を取り戻したい、国民に安心を与える社会保障制度を作らなければならない という思いです。

2つ目は民主党から要請があったということです。政策を実行するには政権をとらなければなりません。誰が総理大臣になっても何も代わらない自民党の官僚政治がこの国を借金だらけにし、国民の将来まで不安に陥れています。ですから、国民の手に政治を取り戻すため、近い将来必ず政権交代を成し遂げる民主党の公認で挑戦することを決心しました。

3つ目は私の盟友吉良州司が起爆剤となり、昨年来私のルーツである大分に吹き始めた民意の風を決して絶えない大きな流れとすることが私の使命であると感じたためです。

いざ出陣へ

両親や兄の存在があってこそ私は自分の判断のままに生きる道を決めてきました。特に教育者であった母の「この道に燃えつくしてぞ梅一輪」(母はウメノといいます)という最後の言葉は一意専心の大切さを説いたものと思います。医学の道から政治の道へ方向転換するのではありません。中国の諺に小医は病気を治し、中医は人も治し、大医は国をも治す。というものがあります。私は今、中医から大医へ羽ばたこうと思います。

保守基盤でありながら新たな流れを生み出す先進県大分。大友宗麟や福沢諭吉を始めとする多くの先哲を生み、フランシスコザビエルやセントアルメイダを受容した、この大分の皆さんとこの国の正しい形について考えて行きたいと思います。

足立信也の決意

国民に安心を、医療に信頼を

去る4月12日、民主党大分県連から参議院大分県選挙区への出馬要請を受けました。このことは、日頃、制度的矛盾を感じながらも現場で医療行為を行ってきた私にとって、医療や福祉のあり方をじっくり見つめ直す大きな契機となりました。

私は一人の勤務医として、与えられた制度の中で最善の努力を行ってきましたが、患者さんひいては国民の皆さんが安心して治療を受けられる、また医師はじめ医療従事者が患者さんの求める医療に応えるには、今の医療制度や福祉制度を抜本的に改革するしかないと改めて痛感いたしました。

熟慮に熟慮を重ねましたが、改革が急がれる医療・福祉の分野を専門とする私に、政治の場で汗を流せと言っているのは多くの県民の皆さんであると受け止め、皆さんの代弁者として、来る参議院選挙大分県選挙区に、近い将来必ず政権交代を成し遂げる民主党の公認で挑戦することを、自らの意志として決断いたしました。

さらに、昨年来私のルーツである大分に吹き始めた民意の風を決して絶えない大きな流れとする事が私の使命であると判断致しました。

わずかの時間での決断でしたが、決めたからには、医療に携わる者の視点を活かし、県民・国民の皆さんの期待に応えるよう全力で頑張り抜く決意です。

平成16年4月6日
足立信也と安心な日本を創る会

代表
足立信也

政策・理念

改革の新旗手!~足立信也の主要政策~

なんと言っても私の専門分野である医療・社会保障制度の抜本的改革です。これだけといってもいいかもしれません。私は病院へ勤務する一人の臨床医として、与えられた制度の中で最善の努力をしてきましたが、患者さんひいては国民の皆さんが安心して治療を受けられる、また医師はじめ医療従事者が患者さんの求める医療に応えるには、今の医療制度や福祉制度を抜本的に改革するしかないと改めて痛感しました。私はケネディのいう 国が何をしてくれるかではなく、国に対して何ができるのかでもなく、何をするかが重要だと思っています。

政治の目的は国家の安全を保ち、国民に安心を与えることにあります。ですから、国家の安全を保障するための他国との協調や、災害時の対応力を備えた組織は欠くことができません。さらに犯罪やテロから国民を守ることは政府の責務です。安全のための組織の充実が必要と考えます。国民に安心感を与える最大の政策は医療・年金などの社会保障政策です。国の借金が雪ダルマ式に膨らんでいく中、これ以上将来世代に借金を付回しにすることは許されません。医療費を際限なく増やすことは出来ない中で、国民が必要とする医療をいかに提供するか、どのような医療制度・医療保険制度が望ましいか、を抜本的に見直すことが必要です。ここに私は現場の臨床医として生の声を生かしたいと思っています。私は国民の医療・介護・福祉・年金に対する不安を取り除きます。医療費のかからない、最も効率的なものは保健医療です。地域住民の健康状態のチェックをし、早期に発見する家庭医の養成が急務であると考えます。

そして、保健・医療・福祉を総合的に行う包括的な医療体制の確立が重要で、そのシステム造りをしたいと考えています。すべてのことをばらばらにやっていては国の社会保障に対する考え方が見えてきません。家庭医・かかりつけ医・救急医療・保健・医療・介護について自治体には包括医療に対応するための施設が必要だと思います。その全体像が明確になっていれば国民の健康に対する安心、医療体制に対する信頼は増します。

そこで大事なのが先の総選挙のマニフェストの中で私が最も賛同できる 民主党の"5つの約束"の一つである「高速道路無料化」です。「高速道路無料化」は新しいライフスタイルを生み、車と人と物が活発に動き出して経済の活性化をもたらし、活力を地方に分散させ、物価の内内格差を縮小して購買力を増加させます。料金所がなくなり、高速道路へのアクセスが良くなります。このことは小児医療の充実や長距離介護を支援することに直結し、経済圏という考え方から医療圏を中心とした地方分権への進化を意味します。

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